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回想版 中国留学日記


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'07年 1月22日

  いまジィジィは天津港を離れつつある「燕京号」の上に乗っている。いつもそうなのだが、中 国を離れる時は本当にさびしい。どうしようも無くさびしいも のだ。中国での生活は「授業」や 相学習」 以外のほとんどは、元々同じ交換留学大学のメンバーだったり、そのメンバーを核として仲間を形 成する事の多い若者たちと違って、年をとったものにとっては一人で食事をしたり、多くは孤独な時間の多い生活で ある。帰国はそれから開放され、家庭の団ら んが待っているはずなのに、なぜか物悲しいものだ。それはジィジィにとっては、北京の街の路地(胡同)をうろつ き歩き、また普段の生活の中に、日本では味 わえ得ぬ「生きている実感」を感じたり、「感性」をどれほどか刺激してくれるからだろうか。それとも・・・。
  人は「裏切られたり」そして、時には「どうして分ってくれないんだろう」と、そう思い「人がイヤになったり 嫌いになったり」そんな時があるもので、 ジィジィの場合にはそんな時、長が〜く、人にあまり会わない山の中に入りたくなる。何日も人に会わないでいる と、無性に人が恋しくなって来るもので、ま た、俗世間の「人間の中に戻るか!」と、そんな気分になれる。北京の「孤独な時間」は、いつも「人を恋しくさせ てくれる時間」でもある。いろんな人と会い たくなり、話をしたくなり、どんなに「気分がいやな事があっても」それを短時間に修復してくれる。そんな不思議 な時間を与えてくれるのが北京だ。日本にい るときには「人と人との関係」にありがたみを感じさせず、それが普通なんだと思わせてしまう。何不自由無く幸福 な団らんの中にいると、ちょっとした事にあ りがたみが感じなくなり、人の感覚を失わせるのかもしれない。ジィジィにとって北京は「人を好きにさせる」時間 が待っているからだろうか。
  そんな北京は、いま開発で急速に風情ある町並みがどんどん失われて行っている。その北京の町並みを、「現存 するうちに、この目に焼き付けておきた い!」そのように思っている。そして、あの人の歩かない会う事もない自然のままの「野長城」を歩くこと、北京に はそんな魅力的な山行も待っている。
  今回は、「旅する時間が無い」と言うジィジィに会いに、はるばると内蒙古の包頭から10年ぶりに、「Lu」 さんがわざわざ会いに上京してくれた。現在 は北京に住み結婚しているという二番目の娘Hy「レリーブ」が、足の不自由になった「Lu」さんに同行して来 た。あの時は高校生で黙々と薄暗い部屋で勉強 していた、あの子が成長しもう結婚しているとは感慨深いものがある。自分の今迄の生涯の中で最も大きなカルチャ ショックを受けた、1996年3月24日の あの一日の出来事が、きのうの様にいま思い出される。
  そして、もう一つは本当に劇的な再会があった。あした北京を発とうとしていた前日の20日昼過ぎ、携帯に 「短信」が入った。ちょうど投資公司を経営し ている友人との最後の食事に誘われ、昼食を終え留学生宿舎に戻った時だった。文面は、ジィジィと
相学習」していたXq「ラブリー」の紹介で、自分の「従姉妹(いとこ)」の 相学習」を頼みたいという事だった。その 「短信」をくれた民大の老師(先生)だというその人のウイグル名を見て、「あれっ!」とすぐ 思った。その名前は7年前に知り合ったウイグルタタールの友人と同じ名前だったからだ。今回、北京に着いた9月 に会いたくて、古い電話番号だったがかけて みて、通じなくて諦めていた友人だった。携帯に入った 「短信」の連絡先が、何んとその古い電話番号なので更にびっくりしてかけてみた。やはりその会 いたかった ウイグルタタールの友人だった。本人は何度も引越しを繰り返し、今はまた以前の部屋に住んでい るという。引越しでジィジィのメモも失いジィジィの名前はすっかり忘れていた。何とした偶然であろうか、留学生 宿舎にさっそく迎えに来てくれた。顔を見て すぐわかったようで、感激の再会をすることができたのだった。 楽しい 夕食で 再会を喜び合い、そして来日して日本語を学ぶという、その 「従姉妹」との 相学習」を約束した。紹介したという 相学習」の 「ラブリー」に感謝!
  北京を発ち夕べは
天津港(塘沽)の「海員クラブ」に泊まるつもりだったが、来て見るとその辺の宿泊施設はすべて 現在は閉館していた。港に最も近く荷物をころがして行ける距離にあって、便利だったのだが残念だ。急きょ1キロ ほど 塘沽市内にもどった「遠洋賓館」に泊まる。単人房だがダブルベットで部屋も広くきれいだ。早朝 移動の便利さと165元(約2500円)で朝食付きなのでまあまあだし、天津市内の300元程度に泊まるよりは 安い。
  けさは早く目がさめた。はやい朝の「天津港站」は人がまばらだった。8時が近づくころ車が頻繁に来るように なり人が集まり始めた。出国手続きはあっけ なく終わり、11時に船が岸壁を離れはじめるまで、ふしぎと帰国の実感がなかった。船が岸壁を離れると、無性に 中国にいる誰かに電話したくなった。これを 書いているうちに無性に家族にも会いたくなって来た。
  飛行機では、成田に着いた時に「もう着いてしまったか!ここはもう日本なんだ!」そう感じるギャップが、た まらなく嫌いだ。それに比べ「燕京号」での 三日間は、少しずつ少しずつ感覚を切り替えてくれる、ジィジィにとって大切な時間を与えてくれる好きな船旅だ。 きょうも天気はまあまあなので出航する船の 甲板に上がってみた。9月に来た時と同じように、青い甲板は太陽に照らされきれいだったが、風の冷たさだけが違 い、全てを忘れさせるように冷たく頬に当 たった。
  あさっては神戸に着く。この「中国留学日記」も今日でおわりになる。近いうちにまた機会をつくり「続中国留 学日記」を書けるだろうか、人に会う事もな いあの「野長城」も歩けるだろうか、
相学習」などで知り合えた「学生」たちにも再会したいものだ。今年は自分の干支で「還暦」だ が、老いることが少しでも綯いに、健康と体力と精神力を保っておこう。
  「老師、老朋友そして
相学習の友人達よ、また会いましょう。再見!」



北京と天津間の快速ダブルデッカー(写 真:左)。天津港站を離れる「燕京号」(中)。 「燕京号」の船旅 (右)。
また北京へ留学再開の時には「中国留学日 記」第二弾をUPできることを楽しみにしている。

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'07年 1月18日

  中国人の学生たちは「考試(試験)」や「論文」提出で、みな忙しく勉強していたが今週には 全て終わり、バックを引いて帰郷する学生の姿も出始めてい る。留学生たちも上期の 「考試」の結果と、終了証書を「結業式」に受理が終わっており、 「結業式」のあった12日の午後からは、ぞくぞくと旅行や一時帰国している。
  ジィジィはと言えば新春登山から帰った4日から、ずっとインフルエンザで40度近い発熱と咳でまる一週間寝 込んでしまった。
「考試」も受けることが出来なかったし、 相学習」での日本語も教えられなくなってしまった。 相学習」の彼(女)らも 「考試」が終わって「老家(故郷)」にぞくぞくと帰って意ってり、春節過ぎまでの長い「放暇」 に入る。そして3月にはまた再び一時帰国や帰省から学生が戻りにぎやかになるだろう。ジィジィも帰国のための郵 便荷物の一つは既に送った。本来なら旅行の 予定など色々考えてはいたが、家の心配事を考えると自分だけ旅行し楽しむ気にもならない。



  課外学習も旅行なども取りやめ予定より早く帰国することを決めた。帰国荷物は今回も最初の 一個目が大きく重くなってしまい17Kgほどで330元 (5000円)だった。あと一個送る準備をしているが船便で一ヶ月半はかかるだろう。それに比べ韓国留学生は便 利だ。いつも韓国と行き来している韓国人 「便利屋」が届ける商売でやって来る。ソウル迄だと1Kg/10元(150円)だそうで20Kgだと3000円 だから安いし、何より一週間で届けると言う から便利だ。どこでもそうみたいだが、さすが日本人以外の民族は「隙間商売」をするのが上手なようだ。
  天津までの切符もようやく買えた。学生の帰省シーズンに入るので「火車票が買いにくい!」と耳に入ってく る。「雲南」や「四川」などの「旅行の切符が 買えたよ!」と言うのを聞くと、うらやましくなってしまう。21日の日曜日には天津港(塘沽)の「海員クラブ」 にでも以前のようにまた泊まれれば、22日 月曜の出航の時の荷物運びも楽になる。
  内蒙古包頭の「Lu」さんの二番目の娘「Hy」(ここでは「レトリーブ」としておこう)
「レトリーブ」 のことが気になったので「天橋」で会い「天檀」をぶらぶらした。北京に出て来て数年になるとい う話を聞きつつ 「レトリーブ」とゆっくり食事をした。幸せな家庭を 「レトリーブ」はつかめ、お姉さんも幸せな家庭が作れたようなので嬉しかった。十年前に初めて 行ったあの「包頭」にまた行きたくなった。何んにもない所なのだが。
  
相学習」の子の一人「マーリャ」の日本語学習の継続を師範大のFdさんにたのんだ。今年の日本 語 検定のために速いレベルアップが必要で、もし学習回数を増やす時間が取り難い場合には、また誰かにお願いしなけ ればならない。ほんとうに「認真努力学習的 学生」なので、日本語検定1級或いは2級を得られ、彼女の「壮大な夢」が叶えられることを願ってやまない。

民族大学には日本語を勉強している学生が ほんとうに多く、日本語科の二百数十人の他に、モンゴル科のやはり同数くらいの学生が第一外国語の必須科目とし て 日本語を勉強している。他に「自己学習」 の学生など百数十人を含めると、約六百人程度は日本語を何らかの形で勉強していると想定される。

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'07年 1月1日

  今日は新年の初めとなる日なので、どうしても書き留めておきたくて、気持ちをむりやりキー ボードに向かわせ書いている。年末の30日朝は雪景色だっ た。北京では初雪であちこちで、女の子達が思い思いのポーズをして記念写真を撮っていた。31日まで雪が舞い2 センチほど積もっただろうか。



  気持ちの中に色々な事で何かが鬱積していたのだろうか、数日前に、ある 相学習」の子(ここでは) 「ハニービー」(としておこう)と昼食事をした時だった。たまたま話が「中国歴史問題」になっ てしまった。その時に気持ちの何かが破裂したように主張した 「中国歴史問題」の話が、たいそうその子の気持ちを傷つけてしまった。 「ハニービー」に与えた「傷心」はどれほど大きかっただろう。ジィジィの考え方のほんの一部に 過ぎなく、個人的にはある意味でどうでも良いことなのだが。 「ハニービー」との 相学習」などの交流はそこで途絶えた。何故その時 「中国歴史問題」を主張し話してしまったのか今でもよく分からない。
  31日の夜は、そんな色々な事で複雑な気持ちの中、年越しの会を数班の有志で行うというので、「越年晩会」 に向かった。お店かどこかが会場かと初め 思って行ったが、フランス人(三人共同)のマンションだというので急ぎ近くで食べる物を買い、三々五々持ち寄っ た30人を超える仲間の食べ物を立食しつ つ、にぎやかな
「越年晩会」となった。きれいで広いマンションの中は「同学」のギターや音楽が流れ、フランス 人、アメリカ人、新疆の中国人、韓国人、タイ人、日本人など若い留学生たちでにぎやかだった。だが、若い留学生 たちの中で年配はジィジィ一人だけで、場違 いのようであった。楽しい越年パーティのはずなのにジィジィの気持ちはどこかさ迷っていた。
  きょう元旦の朝、目覚めは早かった。校門前に待っている中国中央電視台CCTVが主催した「奥運(オリン ピック)活動」の新春登山に参加するバスに 乗った。ジィジィの参加隊は「青色隊」で全隊で6色隊に分かれていた。
「青色隊」には民族大学からの参加留学生はジィジィ一人だけだったが、他の大学の留学生も参加 した国際色の強い隊だった。しかも最も先頭に立つ隊として「万里の長城」に登るため、駆け足で登るという過酷な 新春登山だった。西暦2007年、新年に なって最初の友人「アレックス」とも知り合うことが出来た。彼も書画を好み、彼の吟じる「毛沢東」の有名な、万 里の長城の雪をよんだ詩を聞きながらの登山 は、気持ちの全てを浄化してくれるようだった。上着をぬぎすて半そでになって、共に登ってくれた好青年「アレッ クス」本当にありがとう。感謝の気持ちを送 りたい。



新春の初登山となった中 国中央電視台CCTV主催「奥運(オリン ピック)活動」には今回3000人以上が参加した

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'06年 12月24日

  家からある連絡があって以来、最近あまり授業が手に付かない日々が続いている。この「中国 留学日記」も、あまり書ける気持ちの状態ではないので、もう しばらくしてから、また書き始めることにします。次の試験も近づいてきています。22日の金曜日の夜には、「老 師」たちが留学生たちの為に「クリスマス表 演」を開いてくれ、班ごとの歌や舞踏などの演目を見ての食事会となりました。交換留学生などの中には一時帰国な ど控えてる学生もいます。今夜もカザフに帰 る友人を一人皆んなで見送りました。個人留学生のばあいには終了時期も各自ちがいます。中国で就職したり、次学 期も続けて修習したり、帰国し大学にもどっ たり各自の予定もまちまちです。すでに帰国した学生も居るし、たのしい交流の続いた各国からの留学生どうしも、 また留学生と「 相学習」の中国人学生とのたのしい学習交流もおしまいです。 「人生没有不散的 席」 留学生たちも 相学習」の学生たちも、みな辛い気持ちを抑えての最近です。Eメールがこれからのささやかな交 流手段です。今夜は本当はたのしいクリスマスイブのはずなのですが・・・。

北京は街路樹の葉っぱはすっかり落ちて、 葉っぱの無くなった木のはるか上の方には、小枝を積み重ねて作られた鳥の巣があちこちに見かけられます。

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'06年 12月15日

  民族大学の中で生活していて、外からではあまり知られない点を今日は書いてみよう。民族大 学は少数民族が多い学校として知られている。女子学生も 70%程度と多い。以前に2回も留学で来ていたのに単純に、「新疆人」や「ウイグル族」程度にしか認識していな かった。「カザフスタン」や「タジキスタ ン」からの留学生の「同学」を介して、「新疆学生食堂」で共に食事したりで、彼等と知り合うことが多い。新疆ウ イグル自治区の「カザフ族」や、「タジク 族」やタタール/モンゴル系の流れを共に持つ中国人だったり、「ウイグル族」やタタール系「ウイグル族」だった りする。 新疆ウイグル自治区には、 他に「キルギス族」更に少数の「ウズベク族」などが生活に文化を形成している。留学生の彼等も 一目で何族か何系の民族かが認識できるようで、彼等のイスラムの挨拶方法で頻繁に交流している。外目からはまっ たく以前からの旧友のように会話している様 子は、改めて中国西域がこれらの民族国家と直接接していることを実感させられる。



  ジィジィも彼等の挨拶のやり方や言葉を覚えたいと想って、「波斯(ペルシャ)語」の本も買 い込んで読み 始めたりしている。 「波斯 (ペルシャ) 語」は「印欧系」の言語で歴史も古く、トルコからトルキスタン、アフガニスタンやタジキスタン など で主要に使われる。ウイグル族も少々通じるようで、ウイグル族も古いウイグル語の時代にはモンゴル文字を使い、 現代ウイグル語と同じようなかなり似てい る。それを聴かせてもらった。驚かされるのは、ロシアの中の特定した民族やモンゴル系の民族でも通じる部分があ るようで、似ている単語を実際に発音し聴か せてもらった。彼等は認識できる言葉を巧みに使い、ロシア語を補助的に交えながら交流している。実にうらやまし い。彼らはこれらの言語で違うのは文字で、 ロシア語のアルファベットだったり、モンゴル文字であったり、ウイグルその他の文字に変わっている、という事だ けだと言っていた。これら一連の文字は日本 語なども含まれるアルタイ系言語の流れをもつ。主語、動詞、述語の構成順序が同じだそうだ。ある学生は、文節の 長い文の場合、中国語に訳すより日本語に訳 す方が、語順の入れ替わりも少なく楽だと言っていた。ジィジィは勉強不足で詳しくは知らないが、歴史的にはオス マントルコの時代や、大モンゴル帝国の時代 の影響が残っているようで、あとに残ったタタール民族の言語体系もそれに関係するようだ。



この写真は中国人学生が 其々の民族の言語で 書いた「書法」 で、構内の学生食堂に行く道に展示されて いた。ジィジィも民大美術学院の先生から「 書法 」と「国画」を習っているが、正式に中国 式のをやってみると面白さも感じて、帰国してからも続けたいと最近とくに思い始めている。

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'06年 12月13日

  中国人は人と知り合うと、最初に必ず職業を聞き、そして専門や学歴を聞く。それによって はっきり態度が変化するのを、中国人どうしの初対面での挨拶の時によく目にすることができる。「学歴」において は「修士」や「博士」の研究生には、特別な 目で上の「地位」に認識する。「エンジニア」は「工人」に近いのでやや低く見るし、「研究開発」は地位を高く認 識する。「農村戸籍(約8億人)」の人間を 蔑み、「居民(都市)戸籍(約5億人)」の人間は自分の「地位」を認識する。共産国でありながら「国の教育」の 中で自ら、「共産=階級闘争」を捨て「地 位」という階級社会を、更に国民に意識させる政策は矛盾の最たるものだ
  「カースト制度」という「階級社会」と「人の意識」を崩すのに難攻しているインドとは逆の政策である。中国 政府は経済的な収入の格差拡大を問題視(真 の問題視なのか疑問だが)していながら、一方でこのような国民の価値観や地位観念があるという現実もまた存在す る。
  中国人はいろいろな場面で「地位」という言葉を使い、「政治地位」(政治上の地位)、「国 際地位」(国際的な地位)、「歴史地位」(歴史的な地位)、「職業地位(職業的な地位)という様に、よく「地 位」に固執する。中国人は職業によって、その 人間の社会的地位や、人間そのものの地位や価値まで判断してしまうところがある。中国の指導者もみずから国民に むかって「国際的に中国の地位は世界 の・・・・」と謂うに、国民に対しても「地位感覚」をあおるような言動が目立つ。
  授業の中で「地位」という言葉の用法を「老師」は質問して来た。「あなたの国では、何の職業が地位が高いで すか?」とフランス人は聞かれ、答えに困っ た。ジィジィは常々、そのような中国人の「発想法」に疑問を呈していたので、すかさず、「我々先進国の人間には 中国人のような地位を積極的に思考する、そ のような価値観はありません」と言ってやった。そして質問した。「小さな国や貧しい国は国際上の地位は低いので すか?」、「国際政治での国の地位は低いの ですか?」と。
  更に質問した。「古い歴史の有るという中国の地位は高いのですか?」、「中国人のような職業によって地位や 人間そのものを差別し、判断する価値観は先 進国の人間には持ち合わせていません!」、「中国人は最新技術の製品を使い、物は発展し進歩したが、中国人の脳 みその中の価値観はまったく発展していな い!」と、ついに言ってしまった。「老師」は目を赤くして「実際的には地位が存在する」と弁解をしつつ聞いてい た。「事実として存在する地位と、中国人の ように積極的に地位に固執し、国家や人間などを判断するのとは根本的に違うでしょう」と追撃した。
  先の「老師」は以前にも、ジィジィ達留学生に、「貴方がた人民は・・?」と、留学生に言った時があり、「人 民とは、地位が工人や農民のことで は?・・・私達は人民ではなくて学生ですが!」と言ったのを思い出した。中国政府は元々「人民」という言葉の 「工人や農民」という意味を、「人民=国民」 のように使い始めて久しい。「差別的な意味合いを薄めたい意思」が働いているのかもしれない。

ジィジィ がこのような中国の価値観を感じる一方 で、年寄りにやさしい中国に好印象をいつも感じさせられる。学生食堂で列に並んだりしていると、頻繁に「お先に どうぞ」と譲ってもらえるし、バスでも本当 にしょっちゅう譲られる。山にもまだまだ楽々と登れて体力も若いと自負していても、髪が本当に白くなった今、何 をするにもやさしくされる中国に「古い中国 人の心」の良い面も見せ付けられ、この日記の文を書いていても複雑な気持ちになってくる。

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'06年 12月10日

  北京は毎日、氷点下のほんとうに寒い毎日になった。その寒波の風が吹き抜ける中、物乞いの 姿が頻繁に横断歩道橋に立っている。ジィジィの「缶空」の中に小銭を入れる回数も増えて来た。何ん度いれてもモ ヤモヤは増すばかりだ。何も出来ない自分が いやになってくる。暗くなって街灯が灯っても、まだ立っていた老人が目に焼き付いてしまった。



  目の見えない体で二胡を弾く人や、「赤子」を寝かせて物乞いしている母親、大体が年寄りが 多い。秋ごろには、地方から出て来て帰るお金のない若者が、田舎に帰るお金をめぐんでもらったりしていた。若者 の場合には字が書けるので、その事を歩道橋 の床にチョークで書いている事が多い。中には手足が不自由で地面に這いつくばっている事もある。



  中国人の中には、「ニセの乞食」と言ってはばからない人が大勢いるが、昼間で日が当たる時 間帯でも、北京はそれは大変寒い中「うそ」で長時間、さほどのお金も入らない「缶空」を振っているとは、とうて い思えない。「 相学習」の学生にも言ってあげる。「たとえニセの乞食だとして。それなら、あなたは6時間以上 もの時間、あの寒い中立ち尽くしたったの5元のお金を貰えますか?」と。「私はニセ乞食だとしてもかまわない。 あの苦難への敬意の想いと、自分の為にお金 を入れているんです」と。



  人通りも多く比較的あったかい地下道などは、物売りにほとんど占領されてしまうため、物乞 いの最適な場所はどうしても横断歩道橋などになってしまう。きょうも「缶空」に入った小銭の音が聞こえてくるよ うだ。

北京 は氷点下5,6℃の気温が続き、強い風の 日だったり、風が弱い時には濃霧が立ち込める。日が照っていたので洗濯したズボンを乾かそうと宿舎の外に掛けた ら、あっという間にバリバリになってしまっ た。

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最終更新日 : 2006年12月16日



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